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2014年3月15日 (土)

今までなかった習慣の是非について

今年初めは家のことでなんやかんやあり、また特に書き込むようなネタも思い浮かばず、気づけば今年初めてのブログとなってしまいました。

私、ふと知らず知らずのうちに自分が行ってしまっているある習慣に気づきました。

それは・・新しく知り合いとなった方や興味のある方などが自分の前に現れますと、インターネット(スマホ)でその方の名前を検索してみるといった行為です。

新しく出会った方、紹介された方、気になる著名人に至るまで、興味があると、とりあえず名前をネットでパチパチっと打ち込み、検索をかけてその方の情報を得ようとしてしまっていることです。

以前は気になる場所や行ってみたいスポットや店などのホームページ等で住所や電話番号検索に便利ということでもっぱらネット利用していましたが、最近は個人表現の発信も積極的となり、世間的にもなんら違和感なく、「フェイスブック」や「ツイッター」というツールを通じて自身の情報をアップされている方が多くなってきていることもあって人物情報も多くなってきたように感じます。

自分の顔や就業場所、出身校を知らせ、つぶやき、どこに出かけたとか、どのような友達知人とお付き合いしていることなどを日記として社会に公開されているので、キーボードをパチパチっと叩けばその方の情報を知ることが出来る場合があるのです。

しかし、しかし・・・・その情報収集行為は本当にいいことなのかなあと、自分がそんなことをしておきながら、ふと考え過ぎの虫がにょこにょこと心の中で芽生えてくるのです。

初対面から、名前しか知らない方、もっと言えば竹馬の友に至るまで、知らなかった情報、知らなくてもいい情報を画面で一気に知ってしまう・・・・。それってどうなんだろう。

「あまり深く考えなくていいんじゃないの」という声なき声が聞こえてくるのではありますが、それでもなんとなく私は引っかかってしまんですよね。

特に新しく知り合いになった方などは、色々と知りたいという欲望が生まれ、話をしに会いにいったりして、都度、相手との距離感を探りながら徐々に徐々にその方の為人を知っていくという行為があるような気がします。

そんな思いを巡らせ、会ったり、話をしたりしながらして、小さな発見の積み重ねることが、人間関係構築の素晴らしいところのような気がすると思うのですが、それをすべてすっとばして、過去や結果だけをこの小さな画面ツールで知ってしまう。(もちろん、ツール内でもすべてをオープンにしていない方もおられます。)

私は否定も肯定もしないし、これが今という時代というものなら乗っていかなければいけないと思います。

しかし、これからって時に、知らなくてもいい交友関係やその方のプライベートや基本情報も同時に知ってしまう。

その方のイメージや人物像を勝手に作り上げてから対岐し、関係を構築していくことや見切った感が芽生えることに私は若干の抵抗を感じてしまう。

「あっあの人と知り合いなんだ、あそこに出入りしてんだ、あのグループか、そんな趣味があったんだ、あの学校か、そんな考えをたんだしてたんだ。」

「じゃあこんなことは話したりしたらだめだなあ、あの人と繋がってるんだったら余計なことは言えないなあ・・・・こん話をしたら喜ぶかな・・・」

私のような昭和人間は、お茶や飲めないお酒や食事をしながら話をして仲良くなったり、意見が違えば喧嘩したりして、疎遠になったり、仲直りしてもっと仲良くなったりすることで、関係を作りあげてきた。

もちろんそんなことをしながら生きていれば、私のこと良いと言ってくる方もいれば、最低と言う人もいる。でも私はそうやって人間関係を作り上げてきた。

しかしそんな時間のかかることを端折りショートカットして、インテリジェンスしまってから人と付き合うってどうなんだろうか。

その情報は必要なんだろうか・・・・

そんなに人間はできていない。知らず知らずに処世術を身に着け、自分を基準にし対等か上か下ってなんかをすでに知る前からイメージし人物像を作り上げてから対岐し、付き合いを初めてしまう。

自分自身もまた、自分を表現するツール画面を通して友人や物、言葉、写真をくっつけてデフォルメしながらこうゆう人間であるよと組み立てていっているように見える。

だからお互い知りえた情報の中で、安全運転で個々のネットワークを構築していく。

いいところしか見せない、余計なことも言わないかわりに喧嘩もしない、ぶつからない、しかし一定以上に仲良くもならない、当たり障りのないことしか会話ができない、すべてが表層的なような気がしていならない。

もっと細かく言えば、現実的な問題として、私のような建物の中で何十人、何百人の方々と一緒に仕事をしている場合、よくよく話さずとも相手のある程度ことはすでに知ってしまっている状態って案外にある。

職員同士あいさつ程度の関係でも、「昨日は何処どこへ、誰と出かけて何を食べて」なんて情報は話さなくとも習得済み・・・

考えれば怖い話ですよね。せめてコメント入れろ、話しろってことだよね。

もちろん、こういったツールを否定している訳ではない。時代に逆らって孤独に生きていく気もサラサラない。その変化には乗っていかなければいけない、昔を懐かしんでばかりはいられないし。(歌の文句みたいになってしまった)

便利であるのは間違いないし、その目に見えない利益を契約している額面以上に得ているし謳歌もいている。

しかし何かを得るには何かを捨てなければいけないのです。

人間の欲望が次々と具現化していくこの世の中。繋がってないと不安な人生。短く話すだけの関係性、気に入らなければ無視されるか「ポチッ」とするだけで消される希薄な関係・・・おーやばいやばいここまでにしておこう。

でも、どこか寂しい気がしますね。本来自由であったものが次第に自由でなくなる世界。システム化されている感が否めない・・・。

情報は情報、自分は自分。しっかりと自分軸を強く意識し、こういったツールと関わりあわなければいけないような気がします。

私は、今の時代の暗黙知のようなルールに少しは抗い、昭和の香りが残るようなアナログちっくな人間関係をこれからはもっと大切にし実践しなければいけないと強く思う今日この頃です。

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